シンガポールへの移住を検討したとき、多くの日本人経営者が最初に突き当たる壁がビザの問題だ。とくに就労・経営者向けの「Employment Pass(EP)」、いわゆるEPビザの申請は、要件が年々厳格化されており、「なんとなく大丈夫だろう」と進めると思わぬところでつまずく。
私自身もこのプロセスを経験しているが、正直なところ、日本語で検索して出てくる情報の多くは古い。2023〜2024年にかけて審査基準が大幅に見直され、2026年時点では給与下限の引き上げや補完的評価フレームワーク(COMPASS)の完全運用が定着している。情報のアップデートなしに動くのは、かなりリスクが高い。
この記事では、シンガポールEPビザの申請要件から審査の実態、よくある失敗パターンまでを実務ベースで整理する。「移住を本気で考えている」「駐在員を送り込みたい」「自分で会社を作って申請したい」、そういう方に読んでほしい。
EPビザ(Employment Pass)とは何か
シンガポールの就労ビザ体系を整理する
シンガポールの就労ビザは複数種類あり、まず全体像を把握しておかないと判断が難しい。主なものを下表で整理しておく。
| ビザ種別 | 対象 | 月収下限(2026年時点) | 特徴 |
|---|---|---|---|
| Employment Pass(EP) | 専門職・管理職・経営者 | 5,600 SGD〜(金融業は6,200 SGD〜) | 家族帯同可、S Pass推薦クォータ外 |
| S Pass | 中級技術職 | 3,300 SGD〜(金融は3,800 SGD〜) | 企業ごとにクォータ制限あり |
| EntrePass | スタートアップ創業者 | 下限設定なし(事業計画審査) | イノベーション要件が厳しい |
| Personalised Employment Pass | 高技能者・高収入者 | 月収22,500 SGD以上(既存EP保有者または海外プロフェッショナル、年収換算で270,000 SGD) | 雇用主に縛られない |
経営者や専門職として移住する場合、現実的な選択肢はEPビザかEntrePassになる。EntrePassはイノベーション性や出資状況などの審査が複雑で、ハードルが高い印象を持つ人が多い。シンガポール在住の起業家仲間と話していても、「まずEPを取ってから事業を安定させる」というルートをたどった人が多数派だ。
EPビザで何ができるか
EPビザの保有者は、ビザを発行した雇用主のもとで就労できる。自分で会社を設立してその会社から申請する形も可能なので、経営者・個人事業主的な動き方とも相性が良い。また、DEP(Dependant’s Pass)を通じた配偶者・子供の帯同も比較的スムーズで、家族ごと移住するルートとして多くの日本人が使っている。
なお、Personalised Employment Pass(PEP)については、ACRA登録会社のビジネスオーナー(個人事業主、パートナー、株主、株主を兼ねるディレクター等)には発給されない点に注意が必要だ。
申請要件の現状|給与基準とCOMPASS
給与下限は「目安」ではなく「最低ライン」
2026年時点で、EPビザ申請に必要な月収の下限は5,600 SGDが基本(金融セクターは6,200 SGD)とされている(MOM公式サイト、2026年1月時点)。この水準は2025年1月1日から引き上げられたものであり、2026年1月1日以降に提出されるEP更新申請にも同様に適用されている。さらに2027年以降、MOMは段階的な追加引き上げを公表しているが、具体的な金額・時期についてはMOM公式サイトで最新情報を確認されたい。申請を検討する際は、このスケジュールも踏まえておきたい。
ただし、現行の下限数字はあくまで「申請できる最低ライン」であり、この数字に近ければ近いほど審査は厳しくなる。
実務でハマるのは、「下限をわずかに超えているから大丈夫」という油断だ。年齢が上がるほど、同年代の市場賃金との比較が審査に影響する。40代・50代の経営者の場合、40代半ばであれば一般セクターで最大10,700 SGD、金融セクターで最大11,800 SGD程度が年齢相応の目安とされており、下限ギリギリの設定では「この賃金は年齢相応か?」という観点でひっかかる場合がある。経営経験や技術職のバックグラウンドがある人ほど、高めの設定で申請したほうが通りやすい。
COMPASSスコアリングとは
2023年9月から本格導入されたCOMPASS(Complementarity Assessment Framework)は、EPビザ審査に点数制の評価軸を加えたフレームワークだ。MOM(人材省)が公式に点数基準を開示しており、以下の4つの基礎軸(C1〜C4)と2つのボーナス軸(C5・C6)の計6軸で評価される。
【基礎軸】
1. 給与水準(C1):同職種・同年齢の市場中央値との比較
2. 資格・学歴(C2):認定大学の学位があるか
3. 雇用主の多様性(C3):雇用主企業における国籍多様性
4. 雇用主のサポートバリュー(C4):イノベーション、研究開発などへの貢献
【ボーナス軸】
5. スキルボーナス(C5):Skills/Occupations in Demand(SOL)対象職種
6. 戦略的経済優先分野(C6):政府が指定する重点産業への貢献
各軸は「期待を満たさない/満たす/上回る」に応じて0・10・20点でスコアリングされる。基礎4軸で各軸最大20点(合計最大80点)、ボーナス2軸も各軸最大20点(合計最大40点)が加算され、最大120点中40点以上で「ポイント通過」となる仕組みだ。なお、月収22,500 SGD以上の高所得者はCOMPASS評価が免除される。
自社から申請する場合、「雇用主の多様性(C3)」の項目は自社の従業員構成が影響するため、まだ従業員が少ない設立初期のスタートアップは注意が必要になる。ただし、PMETが25名未満の小規模企業の場合、C3とC4でそれぞれデフォルト10点が自動的に付与される優遇措置があるため、該当する場合は事前に確認しておきたい。
ここは正直、私も計算が直感的にわかりにくいと感じる部分で、MOMのオンラインツールで事前シミュレーションしておくことを強く勧める。
申請手続きの流れ
事前準備から申請まで
シンガポールEPビザの申請は、基本的にオンラインで行う(myMOM Portal経由)。ただし、自分で会社を設立してから申請する場合は、まずACRA(会計企業規制庁)への法人登記が前提になる。ざっくりした流れは下記の通りだ。
- 会社設立(必要な場合):ACRAでの法人登記(Bizfile経由、通常1〜2営業日)
- 申請書類の準備:パスポートコピー、学位証明、職務経歴書(英文)など
- myMOM Portalからオンライン申請:会社の登録アカウントから申請
- 審査期間:オンライン申請で約10営業日(海外企業からの申請は最大6〜8週間)
- In-Principle Approval(IPA)取得:承認通知受領後、6ヶ月以内に入国しEP発行手続きが必要
- シンガポール入国後の手続き:医療検査・パス発行
審査期間の実態
MOM公式では、オンライン申請の場合は約10営業日での処理を目安としているが、実際は状況によって異なる。書類に不備があれば追加情報を求めるレター(RFI)が来て、そこからさらに時間がかかる。シンガポールに法人を持たない海外企業からの申請の場合は、最大6〜8週間かかるケースもある。
直近では、2026年4月のACRA規制整備の影響で、法人関連書類の確認プロセスが若干厳格化されているという話もある。最新の審査スピードは要確認だ。
シンガポール在住経営者の視点
これは私自身の経験を踏まえた話なので、少し主観的になる点はご容赦いただきたい。
EPビザの申請で多くの経営者が見落としがちなのは、「書類の形式的な完成度より、ストーリーの説得力」だという点だ。MOMの審査官は、申請者がシンガポールで何の価値を生むのかを見ている。給与基準をクリアしているか、COMPASSの点数が足りているか、それ以上に「なぜこの人をシンガポールに受け入れるべきか」という文脈が申請全体から伝わるかどうかが鍵になる。
職務経歴書(英文)の書き方も、日本式の時系列羅列より、「何を達成したか」「どのビジネスインパクトを出したか」を数字で示す書き方のほうが評価されやすい。私は金融業界でのマーケティング経験や事業運営の実績を具体的な数値として明示した。上場会社のM&Aを経験しているなら、その規模感をトランザクションサイズとして記載することも有効だ。
マリーナベイ周辺の経営者コミュニティで話していると、「最初は準備が甘くて一度RFIが来た」という話はかなりよく聞く。申請前に専門のエージェントや弁護士を一度通しておくことで、大幅に時間ロスが防げる。コストはかかるが、時間の損失のほうが経営者にとってはるかに痛いことが多い。
よくある失敗例・注意点
給与設定を低く見積もりすぎる
コスト削減の観点から、自社からの申請で給与を最低ラインに設定するケースがある。前述の通り、年齢や職種によっては「市場水準より低い」と判断され、審査が通りにくくなる。給与設定は採算性だけでなく、ビザ審査に影響するパラメータとして捉えるべきだ。
英文書類の品質が低い
日本語の書類を直訳しただけの英文職務経歴書は、審査官に伝わりにくい。実績や役職の表現が日本特有の文化的文脈に依存していると、評価が難しくなる。英語ネイティブチェック、できればシンガポールの人事市場に詳しい人間のレビューを経ることを勧める。
会社設立直後すぎるタイミングで申請する
設立から数日後に申請すると、事業実態の確認が難しいとして追加審査が入ることがある。あるあるなのが、法人を急いで作って翌週に申請というパターン。最低でも事業概要・契約先・資本の状況を説明できる状態を整えてから申請するほうが無難だ。
EntrePassとEPの混同
「自分は起業家だからEntrePass」と決めつけるのは早計なことがある。EntrePassは事業計画のイノベーション性や外部出資要件などが絡んでくるため、かえって要件が厳しいケースも多い。自分の状況に合ったビザ種別の選定は、最初のステップとして非常に重要だ。
DepPass(家族帯同)の申請タイミングを誤る
EPが承認されてからDepPassを申請するのが原則だが、タイミングを誤ると家族の入国が遅れて生活面での混乱が生じる。子供の学校手続きなど、日程が固定されているものが絡む場合は逆算が必要だ。
申請費用と更新の考え方
費用感
EPビザ申請自体の政府手数料は申請時105 SGD、発行時225 SGD程度(2026年時点、MOM公式参照)。代理申請を使うエージェント費用は別途、数百〜数千 SGDまで幅がある。法律事務所を使うとさらに高くなるが、複雑な案件や書類に不安がある場合は検討に値する。
更新と永住権(PR)へのステップ
EPは初回が最大2年、更新時は最大3年の有効期間となる。更新時も当初申請と同様の審査が走るため、給与水準や事業実態の維持が求められる。
永住権(PR)の申請はEPを数年保有してから行う流れが一般的で、最短2年程度での申請例もあるが、審査は厳しい。「EPを取れば自動的にPRに近づく」というわけではなく、税務上のシンガポール居住実績や経済貢献の証明が別途必要になる点は理解しておきたい。
ぶっちゃけ、PRの審査基準はEP以上に不透明で、専門家でも見解が分かれる部分がある。私もここは断言できない。
最終的にどう動くべきか
シンガポールへのEPビザ申請は、「書類を揃えて出せばOK」という類の手続きではなくなっている。審査基準の高度化とCOMPASS導入により、戦略的な準備が求められる。
私の考えとしては、「まず自分でCOMPASSシミュレーションをやってみて、点数が微妙なら専門家に相談する」という順番が合理的だと思う。自分で申請してコストを抑えたい気持ちはわかるが、不承認になったあとの再申請は心理的にも時間的にも消耗する。
それ以上に重要なのは、「なぜシンガポールに行くのか」という事業上の文脈を自分の中で整理することだ。ビザは移住のゴールではなく出発点にすぎない。税務上の居住変更、法人構造の再設計、銀行口座の開設……EPビザが取れた後にも検討事項は山積している。
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