はじめに:「ファミリーオフィスを作りたい」という相談が急増している
正直なところ、ここ数年でシンガポールのファミリーオフィスをめぐる情報は急速に増えた。マリーナベイ周辺の起業家界隈でも「家族の資産をファミリーオフィスに移した」「MASの審査が通った」といった話を耳にする頻度が明らかに上がっている。
ただ、問題がある。情報の質がバラバラなのだ。
「最低資産5億円から設立できる」「年間コストは数百万円で済む」という話を聞いたことがある人も多いと思うが、それが2022年以前の基準だったり、MASの正式要件を誤解したものだったりするケースが後を絶たない。
この記事では、シンガポールのファミリーオフィス設立に必要な最低資産額・設立コスト・維持コスト・税制優遇の要件を、MAS(金融監督庁)の公式ガイドラインをベースに整理する。読んで終わりでなく、実際に意思決定に使える情報として届けたい。
シンガポール ファミリーオフィスとは何か:基礎の整理
ファミリーオフィスの法的位置づけ
シンガポールにおいてファミリーオフィスとは、単一の富裕家族の資産を管理・運用するために設立されたプライベートな投資管理会社を指す。Securities and Futures Act 2021上は、ライセンス要件が免除されるExempt SFO(Licensing Exemption)として、通常の資産運用会社ライセンスが免除される。
※2026年9月時点、出典:MAS
ただし、この免除を受けつつMASの税制優遇スキームを活用するには、別途MASへの届け出と要件充足が必要になる。ここが混同されやすいポイントだ。
シングルファミリーオフィス(SFO)とマルチファミリーオフィス(MFO)の違い
| 種別 | 対象 | ライセンス | 税制優遇 |
|---|---|---|---|
| SFO(シングル) | 1家族の資産 | 原則不要(除外規定) | 13O・13U適用可 |
| MFO(マルチ) | 複数家族の資産 | CMS免許が必要 | 個別スキームによる |
本記事では主にSFOを対象として解説する。MFOは別途ライセンス取得コストが発生するため、構造が大きく異なる。
最低資産要件:2023年改正後の現行基準
ここが最も誤解の多い箇所だ。
MASは2023年7月5日に要件を大幅に改定した。それ以前の情報を参照している場合、数字が全く異なるので要注意。さらに2024年10月発行のFDD Cir 10/2024により2025年1月1日から追加改定が施行されており、2026年8月1日にも新たな変更が加わっている。
2023年7月5日以降のMAS新基準では、13OスキームのAUMは申請時点でS$20M(約22億円)が必要であり、以前設けられていた「申請時S$10M・2年以内にS$20Mへ積み増す」という猶予期間は廃止された。インセンティブ期間中を通じてS$20Mを維持することが求められる。
※2026年9月時点、出典:MAS(新基準は2023年7月5日施行、2025年1月1日にさらに改定、2026年8月1日にも改定)
13Uスキームでは、申請時点で最低5,000万シンガポールドル(約55億円)のファンド規模が必要。
※2026年9月時点、出典:MAS
つまり、現行の整理は以下の通り。
13Oスキームと13Uスキームの比較
| 項目 | 13O | 13U |
|---|---|---|
| 申請時最低資産 | S$20M(約22億円) | S$50M(約55億円) |
| 期間中の資産維持 | S$20M維持必須(猶予期間なし) | S$50M維持必須 |
| シンガポール居住ファンドマネージャー | 1名以上 | 1名以上 |
| 投資専門家(IP)の雇用 | 2名以上(うち1名は非家族メンバー)※ | 3名以上(うち1名は非家族メンバー)※ |
| 地場投資要件(Local Business Spending) | AUM規模による段階制(S$200K〜) | AUM規模による段階制(S$500K〜) |
| 適格シンガポール投資への配分要件(CDR) | 有(AUMの10%またはS$10M、低い方) | 有(より厳格) |
| 税免除対象 | 特定所得 | 特定所得(範囲広) |
※2026年8月1日以降、13Oは申請時1名で可(初年度末までに2名体制へ)、13Uは申請時2名で可(1年以内に3名体制へ)。いずれも非家族メンバー1名を含む必要がある。
※2026年9月時点、出典:MAS、MAS FDD Cir 10/2024
なお、13O・13U・13Dの税制優遇スキームは2029年12月31日まで延長が決定している(MAS FDD Cir 10/2024)。また、2023年7月5日以降、AUMの算定方法は純資産価値(NAV)ではなく指定投資(Designated Investments)の投資価値で計算される点にも注意が必要だ。
設立コスト:初期費用の実態
会社設立・法務費用
ファミリーオフィスはシンガポール法人(通常Pte. Ltd.)として設立する。ACRA(会計企業規制庁)への登録費用自体は名前予約S$15+登録S$300程度(通常のPte. Ltd.の場合)だが、実際に発生するコストはそこではない。
※2026年9月時点、出典:ACRA
法務顧問・コンサルタントへの報酬が設立コストの大半を占める。MASへの届け出書類の作成・審査対応、ファンドストラクチャーの設計、信託スキームの検討など、専門家費用は一般的に以下の水準とされる。
- 法務・設立コンサルティング:S$30,000〜S$100,000程度
- 会計・税務アドバイザリー(初期):S$15,000〜S$50,000程度
- MAS申請サポート:コンサルによって価格差が大きく、要見積もり
※上記はあくまで市場での一般的な相場感であり、個別条件により大幅に変動する。
初期設立コストのざっくりした目安
| 費用項目 | 概算(SGD) | 概算(円換算) |
|---|---|---|
| 会社設立(ACRA登録含む) | S$1,000〜S$3,000 | 約11万〜33万円 |
| 法務・コンプライアンス設計 | S$30,000〜S$80,000 | 約330万〜880万円 |
| MAS申請・届け出サポート | S$20,000〜S$60,000 | 約220万〜660万円 |
| 会計・税務初期設計 | S$15,000〜S$40,000 | 約165万〜440万円 |
| 合計(目安) | S$66,000〜S$183,000 | 約726万〜2,013万円 |
※2026年時点の市場相場をベースにした概算。円換算は1SGD≒110円で計算。
年間維持コスト:見落としがちな「ランニング」の重さ
設立よりも、むしろ維持コストの方が経営判断に効いてくる。これを軽く見て後悔するパターンが多い。
人件費:最大のコスト要因
MASの要件として、シンガポール在住の投資専門家(Investment Professional)の雇用が義務付けられている。この人件費が維持コストの中心になる。
13Oスキームでは最低2名(うち1名は非家族メンバー)、13Uスキームでは最低3名(うち1名は非家族メンバー)の投資専門家が必要だ。なお、2026年8月1日以降は申請時の猶予規定が設けられており、13Oは申請時1名で可(初年度末までに2名体制へ)、13Uは申請時2名で可(1年以内に3名体制へ)となっている。
※2026年9月時点、出典:MAS
シンガポールで経験のある投資専門家を採用すると、年収はS$100,000〜S$200,000超も珍しくない。13Oなら最低2名、13Uなら最低3名必要となるため、人件費だけで年間S$200,000〜S$600,000超の水準になるケースも十分ありえる。
Local Business Spending(地場支出)要件
MASは「シンガポール国内での事業支出」として一定額の使用を義務付けている。この要件はAUM規模によって段階的に定められており、13OはAUM S$50M未満でS$200,000/年、S$50M〜S$100MでS$500,000/年、S$100M超でS$1,000,000/年となる。13UはAUM S$50M〜S$100MでS$500,000/年、S$100M〜S$1BでS$1,000,000/年、S$1B超でS$1,500,000/年の段階制だ。この支出には会計・法務・IT・コンプライアンス費用が含まれるが、海外への支払いは原則カウントされない。
※2026年9月時点、出典:MAS
つまり、この要件を満たすためだけにシンガポール国内での支出を意識して組む必要がある。これが「思ったより高くつく」と感じる主因の一つだ。
年間維持コストの目安(13Oの場合・AUM S$50M未満)
| 費用項目 | 年間概算(SGD) |
|---|---|
| 投資専門家の人件費(2名) | S$200,000〜S$400,000 |
| 会計・税務・監査 | S$30,000〜S$60,000 |
| コンプライアンス・法務 | S$20,000〜S$40,000 |
| 事務所費用・管理コスト | S$20,000〜S$40,000 |
| 合計(概算) | S$270,000〜S$540,000/年 |
年間で3,000万〜6,000万円程度を「運営コスト」として想定する必要がある。資産S$20Mに対してこのコストをかけるのかどうか、費用対効果の計算は冷静にやってほしい。
シンガポール在住経営者の視点:私が感じる「本当のハードル」
ここは少し私の感覚も交えて書く。
マリーナベイ周辺の日系コミュニティでも、ファミリーオフィスを設立したものの「MASの要件維持が思ったよりしんどい」という声は少なくない。特に最近のMAS指針では、コンプライアンス対応の厳格化が顕著で、書類管理・内部統制の整備を形式的にやるだけでは済まなくなってきている。
私自身、複数の事業をシンガポールで運営している立場から言うと、「節税目的だけ」でファミリーオフィスに飛びつくのは危ない選択だと思っている。税制優遇(13O・13U)は確かに魅力的だが、その恩恵を享受できるのは「運用益に対する免税」であって、元本が増えなければ意味がない。
S$20Mを入れて年間S$400,000以上のコストをかけ、運用リターンが2%(S$400,000)だったとすれば、維持コストと相殺されてしまう計算になる。ここは誰も明示的に言わないが、実態として把握しておくべき数字だ。
もう一点。上場企業の買収を経験した立場から言うと、M&Aや事業投資にファミリーオフィスを活用するのは非常に合理的な判断だと思う。会社を売却したキャピタルゲインをファミリーオフィスに移し、次のディールの投資プラットフォームとして機能させるスキームは、実際にシンガポールで多く見られる構造だ。純粋な資産運用だけでなく、事業戦略の一環として設計できるかどうかが、この仕組みを活かせるかどうかの分かれ目になる。
よくある失敗例と注意点
失敗例①:旧基準の情報で設計を進めてしまう
冒頭にも書いたが、2023年7月5日のMAS改正前の情報がまだネット上に大量に残っている。最低資産S$5MやS$10Mという情報を見て計画を立てた結果、実際の要件がS$20M以上(かつ猶予期間なし)だったと気づく、というケースが典型的な詰まりポイントだ。
また、2025年1月1日施行・2026年8月1日施行の追加改定も見落としがちな要注意ポイントだ。必ずMAS公式サイトの最新ガイドラインおよびFDD Cirを確認すること。
MASは所得税法(Income Tax Act 1947)第13O条、第13OA条および第13U条に基づくファミリーオフィス向け税制優遇スキームを管理している。(出典:mas.gov.sg/schemes-and-initiatives/fund-tax-incentive-scheme-for-family-offices)
※2026年9月時点、出典:MAS
失敗例②:コンプライアンス担当を外部に丸投げして実態が空洞化
形式的にIPを雇い、コンプライアンス書類だけ整えて実態の運用がない状態は、MASの審査や更新時に問題になる可能性がある。ファミリーオフィスとしての実態(実際の投資活動・記録・意思決定プロセス)を整備することが求められる。
失敗例③:シンガポール非居住のまま申請しようとする
ファミリーオフィスの主要な受益者(ファミリーメンバー)がシンガポールに居住実態を持たないケースで、節税効果を最大化しようとするのはリスクが高い。日本の税務当局(国税庁)が「実質的な経営支配権が日本にある」と判断すれば、日本課税が生じる可能性がある。移住と法人設立の両面を整合的に設計することが不可欠だ。
※2026年9月時点、出典:日本国税庁(法人税法・所得税法)
失敗例④:Capital Deployment Requirement(CDR)を見落とす
MASは適格投資(Designated Investments)の一定比率をシンガポール関連資産に向けるCapital Deployment Requirement(CDR)を課している。現行基準ではAUMの10%またはS$10M(いずれか低い方)を指定ローカル投資に配分することが必要で、特定の投資タイプには2倍・1.5倍のマルチプライヤーが適用される。この要件が投資方針と合わない場合、設計段階で調整が必要になる。
※2026年9月時点、出典:MAS
結論:ファミリーオフィスは「ツール」であって「答え」ではない
シンガポールのファミリーオフィスは、設計次第で非常に強力な資産管理・節税・事業投資のプラットフォームになる。ただ、費用対効果の観点から言えば、資産規模がS$20M(約22億円)を下回る段階で13Oに飛び込むのは、私個人としては慎重に考えた方がいいと思っている。もちろん個人の事情次第で話は変わるし、ここは専門家でも見解が分かれるところだ。
検討の入り口として、まずは「自分の資産規模・投資方針・将来の事業計画」がファミリーオフィスのコスト構造と噛み合うかどうかを整理することが先決だ。
あなたの状況がファミリーオフィス設立に本当に向いているのか、向いていないとすれば代替スキームは何か——そういった実務的な判断軸の整理に使える情報を、LINEでも随時発信している。記事では書けない踏み込んだ話もそちらでしている。よかったら登録してほしい。
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※本記事は一般的な情報提供を目的としており、税務・法務・投資判断は必ず専門家にご相談ください。情報は2026年時点のものであり、法改正等で変更される場合があります。

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