導入
「ファンドを組成したい」という話は、マリーナベイ周辺の起業家界隈では珍しくない。ただ、VCC(Variable Capital Company)という言葉は知っていても、実際にどう動けばいいか、コストはいくらかかるか、日本の税務とどう絡むか——そこまで踏み込んだ情報が少ないのが現実だ。
VCCは2020年にシンガポールが導入したファンド専用の法人格で、プライベートエクイティ、ヘッジファンド、ファミリーオフィス、ベンチャーキャピタルといった幅広い用途に使える。既存のシンガポール会社法の枠組みとは別に、ファンドの柔軟な組成・解散・サブファンド設立を可能にした仕組みだ。※2026年8月時点、出典:シンガポール金融管理局(MAS)、ACRA公式サイト
私自身、海外の取引所でのマーケティング業務を経て、今はシンガポールで複数の事業を運営している。上場企業の買収も経験してきたが、その過程でVCCの存在が資産保全やM&Aのストラクチャリングにとって非常に重要なツールになり得ると実感している。
この記事では、VCCファンド組成を真剣に考えている日本人経営者・富裕層に向けて、手続き・費用・税務・実務上の注意点を包み隠さず書く。概論ではなく、意思決定の材料になる情報を提供することを目指す。
VCCとは何か:シンガポールが作ったファンド専用の器
従来型会社との根本的な違い
通常のシンガポール会社(Pte. Ltd.)は、利益から費用を引いた残余を株主に配当する仕組みだ。資本金の払い戻しには制限がある。ところがVCCは、純資産価値(NAV)を基準に投資家への払い戻しが自由にできる。ファンドとして機能するための最低限の構造が、法律レベルで保証されているわけだ。
具体的には以下の特徴がある。
- 単一VCC + サブファンド構造:1つのVCCの傘下に複数のサブファンドを設置でき、各サブファンドは独立して資産・負債を持つ。コスト効率の観点から、これはかなり重要だ。
- 投資家情報の非開示:株主登録簿が公開されない。Pte. Ltd.との大きな違いで、プライバシーを重視する富裕層には刺さるポイントだ。
- 柔軟な利益分配:NAVベースで随時払い戻しが可能。
- 会計基準の柔軟性:IFRS、SFRS、US GAAPなど複数の基準に対応。
Reference: “A VCC must appoint a fund manager that is regulated by the Monetary Authority of Singapore (MAS), or is exempt from such regulation under the Securities and Futures Act.” (https://www.acra.gov.sg/register-of-businesses/other-types-of-business-structures/variable-capital-company) / 訳:VCCは、MAS(シンガポール金融管理局)の規制を受けるファンドマネージャーを任命するか、証券先物法のもとで規制免除を受けた者を任命しなければならない。
※2026年6月時点、出典:ACRA公式サイト、Variable Capital Companies Act 2018
ここが最初の関門になる。VCCを動かすには、必ずライセンスを持つファンドマネージャー(またはライセンス不要の適格なマネージャー)が必要だ。自分で全部やろうとしても、MASの規制が壁になる。
VCCの主な用途
VCCが使われる場面は、大きく分けて以下の通りだ。
- ファミリーオフィス型の資産管理:個人・家族の資産を効率的に管理し、世代間移転を見据えたストラクチャリング。
- プライベートエクイティ・VC:スタートアップやM&A案件への投資ビークル。
- 不動産ファンド:海外不動産をVCC配下で保有・運用。
- ヘッジファンド的な運用:複数の投資家から資金を集めた集団投資スキーム。
M&Aを繰り返す経営者の立場から正直に言うと、「買収したい会社があるが個人で持つのはリスクが高い」「複数の投資家と共同でスキームを組みたい」という場面でVCCは非常に機能する。私がかつて経験した上場企業の買収でも、ストラクチャリングの選択肢としてVCCは候補に上がっていた。
VCCファンド組成の手順と費用:実務的な数字
設立の基本フロー
VCCの組成はACRA(会計企業規制局)への申請が起点になる。2026年時点の一般的なフローは以下のとおりだ。
- ファンドマネージャーの確保:MASライセンス取得済みの運用会社と契約、または自らライセンスを取得(後述)。
- ACRAへのVCC設立申請:定款(Constitution)の提出、初期役員・登録住所の登録。
- MASへの通知・登録:ファンドの種類によってはMASへの別途届出が必要。
- 銀行口座開設:これが地味に難関。後述する。
- ファンド文書の整備:Private Placement Memorandum(PPM)、Subscription Agreement等の作成。
設立自体のACRAへの申請費用はSGD 8,000〜15,000程度が目安だが、これは法律事務所・設立代行業者によって大きく異なる(なお、ACRAへの公式申請手数料はVCC本体設立でSGD 8,000固定、サブファンド登録は1件あたりSGD 400。上記の幅は法律事務所費用込みの参考値)。加えて、ファンド文書の作成、ファンドマネージャー費用、会計・監査費用が積み上がってくる。※2026年時点、出典:ACRA公式手数料表
コスト感を整理する
正直なところ、VCC組成の初期コストは「安い」とは言えない。以下は2026年時点の一般的な費用感だ(確定額ではなく参考値)。
| 項目 | 概算費用(SGD) | 備考 |
|---|---|---|
| ACRAへの設立費用 | 8,000〜15,000 | 法律事務所込みの場合(ACRA公式申請料はSGD 8,000固定) |
| ファンド文書作成(PPM等) | 15,000〜50,000 | 複雑さによる |
| MASライセンス申請(CMS) | 1,000〜(申請料) | 規制活動ごと・非還付。別途弁護士費用および代理人1名につきSGD 200が加算。最低ベース資本はA/I投資家向けLFMCでSGD 250,000、リテール向けでSGD 1,000,000 |
| 年間監査費用 | 10,000〜30,000 | ファンド規模・複雑性による |
| ファンドマネージャー委託費 | AUMの0.5%〜2%程度/年 | 運用会社との交渉次第 |
| 登録住所・秘書業務 | 3,000〜6,000/年 | — |
※2026年8月時点、出典:MAS公式サイト(CMSライセンス申請料)、ACRA公式手数料表
初期投資の合計として、最低でもSGD 50,000(約550万円)前後は覚悟しておいたほうがいい。AUMが数百万USD以下のケースでは、コスト対効果を真剣に計算する必要がある。
また、VCC Grant Scheme(設立費用の一部補助制度)はかつて存在したが、2025年1月15日をもって新規申請受付が終了している。現在は補助金の利用を前提としたコスト計算はできない点に注意が必要だ。
MASライセンスの壁:自分でやるか、委託するか
ここは私も判断が難しいと感じるところだ。
VCCのファンドマネージャーになるには、原則としてMASのCMS(Capital Markets Services)ライセンスが必要だ。ただし、SFA(証券先物法)Section 99(1)に基づく免除スキームがあり、条件を満たせばライセンスなしで運営できる。なお、「Exempted Fund Manager(EFM)」は俗称であり、公式カテゴリはSection 99(1)免除者やVCFM(Venture Capital Fund Manager)等に分類される。またRFMC(Registered Fund Management Company)制度は廃止が進行中であり、VCFMがその後継に位置づけられている点にも留意してほしい。
Reference: “Venture capital fund managers and exempt fund managers are exempt from holding a capital markets services licence to conduct fund management.” (https://www.mas.gov.sg/regulation/capital-markets/fund-management) / 訳:ベンチャーキャピタルファンドマネージャーおよびエグゼンプトファンドマネージャーは、ファンド管理を行うためのCMSライセンスを取得することを免除されている。
※2026年8月時点、出典:MAS公式サイト(Securities and Futures Act Section 99(1))
免除スキームの主な条件(2026年時点):
– 運用する投資家は不適格投資家(一般投資家)を含まない
– 管理するファンドの数に制限あり
– MASへの届出は必要
ライセンス取得コースを選ぶか、免除スキームに収まる設計にするか——これはファンドの投資家構成と運用規模次第だ。外部のライセンス取得済みファンドマネージャーに委託するのが最もシンプルな出発点だが、長期的に自社でコントロールしたい場合はCMSライセンス取得が選択肢に入る。
税務メリットの実態:何が節税できて、何が神話か
シンガポール側の税務優遇
VCCに適用される主な税務上の優遇は以下のとおりだ。
Section 13O / Section 13U(旧称:13R / 13X)による税免除
シンガポールの所得税法は、MAS承認の特定ファンドスキームに対して投資所得の税免除を認めている。なお、Section 13RおよびSection 13Xは所得税法の2020年改訂版でそれぞれSection 13O、Section 13Uに改称されている。
Reference: “Under the Section 13O scheme, income of a fund managed by a Singapore fund manager is exempt from tax, subject to conditions, including the fund being managed by a Singapore-based fund manager and meeting the local business spending requirement.” (https://www.iras.gov.sg/taxes/corporate-income-tax/specific-topics/tax-treatment-of-the-income-of-different-entities/tax-exemption-for-qualifying-funds) / 訳:13Oスキームの下では、シンガポールのファンドマネージャーが運用するファンドの所得は、シンガポール拠点のファンドマネージャーによる管理条件や現地事業支出要件を満たすことを条件として、税免除を受けることができる。
2026年時点では、13Oスキームのローカル事業支出要件(LBS)は2025年1月1日以降にAUMに応じた段階制(Tiered LBS)へ変更されており、AUM SGD 2億5,000万未満で年間SGD 200,000、AUM SGD 20億以上で年間SGD 500,000と幅がある(単純に「SGD 200,000以上」が適用されるのはAUM SGD 2億5,000万未満のケースのみ)。また最低AUM要件は13OがSGD 500万、13UがSGD 5,000万(いずれも各会計年度末時点)。13Uスキームは要件がより厳しい一方で対象範囲が広い。さらに、Section 13O・13U・13Dの有効期限は現在2029年12月31日まで延長されているが、将来の制度改正には引き続き注意が必要だ。最新の要件はIRASの公式情報を必ず確認してほしい(法改正が頻繁にある)。
※2025年1月以降適用、2026年8月時点で有効。出典:MAS Circular FDD Cir 10/2024、IRAS
日本側の税務:ここが本当の論点だ
日本の富裕層・経営者がVCCを検討する際、シンガポール側の非課税よりも日本側の課税問題が本質的な論点になることが多い。
あるあるなのが「シンガポールにVCCを作れば日本の税金がなくなる」という誤解だ。これは危険な思い込みで、以下の点を押さえておく必要がある。
- 日本居住者のまま投資する場合:VCCから得た分配金や売却益は、日本の所得税・住民税の課税対象になる可能性が高い。
- 外国子会社合算税制(タックスヘイブン税制):特定の要件を満たさないVCCは、日本の株主に対してタックスヘイブン課税が適用されるリスクがある。※2026年度税制・2024年4月以降開始事業年度から適用のトリガー税率改正あり。出典:財務省・国税庁、PwC Japan
- 租税条約の適用:日本・シンガポール間には租税条約があるが、VCCへの適用が認められるかどうかは案件の実態による。※2026年8月時点、出典:財務省
正直に言うと、この領域は専門家でも見解が分かれるケースがある。日本の税理士とシンガポールの税務専門家の両方を使って、二国間で整合したストラクチャーを設計することが必須だ。
シンガポール在住経営者の視点:VCCを使う場面・使わない場面
私がシンガポールで事業を運営し、上場企業の買収も経験した立場から正直に話す。
VCCが本当に機能すると感じるのは以下のような場面だ。
使うべき場面
– 複数の投資家(シンガポール居住者を含む)と共同で資産を運用したい
– M&AのSPV(特別目的会社)として使うが、将来的に別の案件にも使い回したい
– ファミリーオフィスとして資産を次世代に移転する長期プランがある
– プライバシーを最優先したい(投資家名簿が非公開)
使わないほうがいい場面
– 自分一人の資産を単純に保有したいだけ(プライベートPte. Ltd.で十分)
– AUMが数百万SGD以下で、コストペイしない
– 日本から移住せずに使おうとしている(税務リスクが跳ね上がる)
– 規制対応・コンプライアンスコストを極小化したい(VCCはそれなりに重い)
上場企業の買収案件で私が学んだことの一つは、「ビークルの選択ミスは後から修正するコストが膨大になる」という点だ。VCCは強力なツールだが、全ての経営者にとって最適解ではない。組成前に「本当にVCCが必要か」を問い直す作業は省いてはいけない。
よくある失敗例と注意点
銀行口座開設の過小評価
VCC設立の申請が通ってからが本当の戦いだ。シンガポールの銀行(DBS、UOB、OCBCなど)は、ファンドビークルに対するKYC(本人確認)・AML(マネーロンダリング防止)の審査が非常に厳格だ。ここで数ヶ月詰まることはザラにある。
特に日本のパスポートのみを持つ申請者、または日本に主な事業基盤がある場合は、銀行側から詳細な説明を求められる可能性が高い。開設できなかったというケースも聞く。これは過小評価している人が多い。
ファンドマネージャー選びの失敗
コストを下げようとして実績の薄い業者を使い、MASの審査でひっかかるか、運営後のコンプライアンス対応が機能しないケースがある。ファンドマネージャーの選定は、費用よりも実績・規制対応能力・コミュニケーション能力で選ぶべきだ。
日本の税務を後回しにする
「まずシンガポールで組成してから日本の税理士に相談」という順番でやると、設計段階に戻らなければならなくなる。日本側の税務アドバイスを先に取ること。これは絶対だ。
「VCC = 節税」の単純化
先ほど書いた通り、VCC自体は節税の万能薬ではない。シンガポール側の税免除スキームを受けるには条件を満たさなければならず、日本側の課税は別途論点になる。「VCCを作ればオフショアで非課税」という理解は、2026年時点では相当危険だ。
VCCと他のビークルの比較
| ビークル | 設立コスト | プライバシー | 投資家複数対応 | 日本の税務リスク | 向いている用途 |
|---|---|---|---|---|---|
| シンガポールVCC | 高(SGD 50,000〜) | 高(株主非公開) | ◎ | 要精査 | ファンド、ファミリーオフィス、PE |
| シンガポールPte. Ltd. | 低(SGD 数千) | 低(株主公開) | △ | 通常通り | 事業運営、単純持株 |
| ケイマン諸島LP | 中〜高 | 高 | ◎ | 要精査 | グローバルファンド |
| 日本の投資事業有限責任組合 | 中 | 中 | ○ | 日本法内で管理可 | 国内VC・PE |
| マレーシアLabuan IBFC | 中 | 高 | ○ | 要精査 | アジア周辺の投資 |
シンガポールVCCの独自の強みは、MASの信頼性・アジアでの認知度・サブファンド構造の組み合わせにある。ケイマンより規制が重いとも言えるが、それが信用につながる場面もある。
結論:VCCは「使いこなせる人向け」のツールだ
VCCは間違いなく強力だ。投資家のプライバシー保護、サブファンド構造による柔軟性、シンガポールの税務優遇の組み合わせは、ファミリーオフィスやPEファンドを設計する経営者には魅力的な選択肢になる。
ただ、「シンガポールにVCCを作れば全部解決」という発想で動くと、コスト・規制・日本側の税務の三重苦にはまる。これは正直なところ、私が見てきた範囲でも「やってみたら思ったより大変だった」という声が少なくない領域だ。
VCCを検討するなら、以下の順番で動くことを勧める。
- 日本の税理士(国際税務に強い専門家)に現状のリスクを確認する
- シンガポールのファンド弁護士・MASライセンスの専門家にVCCの適否を確認する
- ファンドマネージャー候補と運用スキームを設計する
- 銀行口座開設の可否を並行で確認する
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※本記事は一般的な情報提供を目的としており、税務・法務・投資判断は必ず専門家にご相談ください。情報は2026年8月時点のものであり、法改正等で変更される場合があります。出典:記事内各所に記載のMAS・ACRA・IRAS等公式資料を参照。

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